泣かれた

「それでな、そのお方が…!」
缶ビール片手に陽気そうに話す女とは対照的に、俺様は滅入っていた。
再就職のお祝いに腕によりをかけて作った料理もすっかり冷め、かすがはさっきから同じ話ばかりしている。
新しい就職先の社長は、1代で会社を興した凄腕の人物で冷静沈着、頭脳明晰、才色兼備で非の打ち所のない人だとかなんとか。
いい加減うんざりしていたが、かすががあんまり嬉しそうに話すので仕方なく頷いていた。
「その謙信様がな、この私に、直々に声をかけてくださったのだ…!」
怪しい呂律で捲し立てるとすごいだろ、なんて絡んでくる。
「へぇー」
さっきから何回この会話を繰り返しただろう。
見たこともないような微笑みを浮かべて、かすがは満足そうに頷いた。
(それにしたって少し慕い過ぎじゃないの?その若社長を)
俺様の訝しげな視線もお構いなしにかすがは熱っぽい瞳で話し続ける。
そんなうっとりした目でそいつを見ていると思うと何だかちくちくと胃の辺りが痛くなる。
酒が回ったのだと言い聞かせるが、どうにもこの感情は収まらない。
どうせ酔っているから大丈夫だろうなんて、安易に地雷を踏んでしまった。
「でもさー、秘書に選ばれたからって謙信様に相手してもらえるとは限らないよね」
そう言い放った瞬間、かすがの動きが止まった。笑顔を顔に貼付けたまま俺様を凝視している。
「かすが?」
「…うるさい」
かすがは貼付けていた笑顔を急に崩すと、眉間に思いっきり皺を寄せてもう一度言った。
「うるさい!」
そしてそのままうなだれるようにうつむいて黙り込んだ。
「かす「お前なんか万年平社員のくせに…!」
言葉を遮られ辛辣な言葉を浴びせられる。気まずい雰囲気の中、かすがをじっと見つめているとふいにテーブルの上に1粒水滴が落ちた。
「 げ! 」
驚いて声を上げるがかすがには聞こえていない。
お前なんか謙信様の爪の垢でも煎じて飲めばいい、だなんて文句を言っていた。
相変わらず水滴は、テーブルの上を濡らしていく。
「ちょ、かすが…泣くなって」
さすがに言い過ぎたと感じ、おろおろと声をかける。
「お前なんか謙信様の足下にも及ばないくせに」
(…………)
こうなると何を言っても無駄だ。長年の経験がそれを思い起こさせる。どうやら完全に謙信様にお熱のようだ。
泣きたいのは間違いなくこちらだったが、めげずに堪えて話題を変える。
「もしかしてさー、
 謙信様も 
 お前のこと…
 すき…
 かも よ…?」
チラチラとかすがの様子を窺いながら、一言一言口にする。かすがはうつむいたまま、微動だにしなかった。
文句も言わない。
不思議に思って恐る恐るかすがの肩を押した。かすがは自然の重力によって、後ろに向かって仰向けに倒れた。
どうやら眠ってしまったようだ。
「器用な奴…」
ぼんやりと呟いて、最後のが聞こえてなかったことに安堵する。
かすがの頬には涙の後が一筋、うっすらと光った。
「あーあ、またかよ」
小さく溜め息をつくと、涙の後を指で拭った。

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