もう1回

「佐助。話がある」
夕食を終えてすぐ、旦那が言った。 普段の様子とはかけ離れた真剣な眼差しで、 思わず後ずさる。 旦那がこういう顔で俺様を呼ぶときは、 大抵暗殺と決まっている。
(はいはい、またお仕事ね)
すぐ行きます、と一声かけてから 食べたばかりの膳を片付ける。 お椀のふちに指を滑らせれば、指先に痛みが走った。 手元を見ると赤い雫が滴り落ちている。
お椀が少し欠けているのに気付いて、ため息を漏らす。
(あーあ、なんかツイてないな)
もう一日が終わろうとしているっていうのに、 俺様はお仕事。
忍びだからしょうがないけどさすがに滅入る。 指先がぴりりと痛む。
お椀を一通り洗ってしまったあと、 自室に戻る前に旦那の部屋に顔を出す。 重たい空気が体に纏わりついているような気がして、 ここに来るまで妙に時間がかかった。
「旦那、入るよ」
ふすまの前で、声をかける。 すぐに返事はない。 一呼吸おいて旦那の声がした。
「入れ」
その声はいやに沈んでいる。 部屋に入ると旦那は、入り口から背中を向けて座っていた。 部屋の中には申し訳程度に明かりが灯り、 よりいっそう重たい空気を増長させていた。
「暗殺の仕事?」
静かに、でもはっきりと口にした。
「…ああ」
旦那は振り向きもせずに答えた。 俺様は
「はぁ」
とため息をついて続ける。
「で、どこの誰?」
旦那は振り返った。 暗い部屋の中でよく表情は読み取れないが、 いつもの燃えるような瞳も、パッと明るい表情も、 今はなんだか灰のようだった。
「…佐助。お主、疲れているのならこの仕事、他の忍びに回してもよいのだぞ?」
旦那は俺様の質問には答えずに言う。 疲れてる…って 最近は仕事も少ないし、どちらかと言えば暇を持て余しているくらいだ。 他の忍びに回してもいい、だなんて、よっぽど危険な仕事なのか。 何にせよ、旦那の様子はあきらかにおかしい。
「旦那?」
旦那は答えない。 あまりにも辺りが静かすぎて、時が止まったように感じられる。 旦那は動かない。 ただ、静かにまばたきをして 真っ直ぐに俺様を捉えていた。
それから、 どれくらい見詰め合っていたのだろうか。
ようやく、旦那は口を開いた。
一文字、一文字、 とても丁寧に、 ゆっくりと。
まるで、スローモーションのように。
旦那の言葉だけが、 辺りに吸い込まれていくように。
あぁ、指が痛い。やっぱり今日は…ツイていない。
「上杉謙信の、懐刀を、暗殺せよ」

時が、止まった。
「え…」
平静を装ったが声の震えが隠せない。 情けないことに、体も震えていた。 旦那は俺様から視線を外すと、躊躇いがちに言った。
「先程、お館様から命を受けた。子の刻(午前0時) にはここを出て、夜明けまでに暗殺を済ませるのだ。明朝、上杉に進軍する」
子の刻? 思わずあたりを確認した。 障子から漏れる闇は、残された時間の限度を物語る。 あまり、時間がない。 しばらく何も言えずに押し黙っていると、旦那が続けていった。
「佐助。この仕事、降りてもよいのだぞ?かすが殿はお主のお「関係ないよ」
思わず旦那の声を遮った。 旦那は大きな声にびくりと反応する。 それ以上は、聞きたくなかった。 かすがが、 あいつが俺の想い人だなんて、再確認したくなくて、 捲し立てるように言った。 まるで自分に言い聞かせるように。
「俺様は優秀な忍びだ。優秀な忍びは、仕事と私情をごっちゃにしない。」
旦那を見る。 旦那は、静かにうなずいた。 俺様もうなずく。
「…大丈夫。うまくやるよ」
そう言うと、旦那は悲しそうな瞳で笑った。
「気をつけるのだぞ、佐助」
その瞳に、再び炎が宿る。
「死ぬな」
適当に返事をして部屋を出る。 入り口の前に立って礼のひとつでも言わんとすると、 旦那が何かをこちらに放り投げた。
「うわっと、」
それを受け取ると同時に旦那は言った。
「それは、城内の見取り図と兵の配置を描いたものだ。役立てろ」
「ど、どーも」
今度はきちんと礼を言って廊下に出た。
これから念入りに準備をしなければならない。
そう思うと自室までの廊下がとてつもなく長い気がした。

*

やっとのことで自室に戻るとさっそく準備にとりかかる。 暗殺用の忍装束に着替え、昨日研いたばかりの大型手裏剣を手に取る。
(俺様に、殺せるだろうか)
手裏剣を見つめながら考える。 相手は一般兵とはわけが違う。
あいつを、殺せるだろうか?
…いや、 殺せるか殺せないかの問題ではない。
俺は殺さなくてはならない。
どんな手を使ってでも上杉の懐刀を。
この日が来ることは、遅かれ早かれ、わかっていたことだ。
大丈夫。 俺様の方が優秀な忍びなんだから。

鉛色の刃先が、鈍く光った。子の刻とほぼ同時に武田を出て、上杉の領地へ向かう。 気分は最悪だったが、 旦那からもらった地図のおかげで、難なく侵入出来た。
だいたいここへは何度か来てるので 地図なんてなくとも容易く侵入出来たはずだが、念には念を、だ。
(さて。かすが、かすがっと)
辺りを見回すと、それらしき影はない。 何となく一番高い、見晴らしの良い所にいそうな気がしてその場所を探した。 とりあえずその場から上を見上げると、 屋根の上に金色の物がなびいているのが見えた。 それは、ほんの一瞬だったがすぐにそれだとわかった。
(あーあ、もう見つけちゃうなんて、ついてない)
静かに、もっとかすががよく見える場所に移動する。 どうやら黄昏れているようだ。
(あいかわらず、良い女だねぇ)
横顔を見て胸が痛んだ。
すぐに殺してしまったのでは、面白くない。 そう思うことにして、かすがに声をかける。
「かーすが」
できるだけ、いつものように。
気配でわかるのか、声でわかるのか、もうお馴染みの顔に反応は薄い。 かすがはゆっくりと振り向いた。 その眉間にはしっかりとしわが刻まれている。
「…またお前か。ここがどこかわからないようだな」
かすがは諦めたように言う。
「わかってるさ。何してんの?」
かすがは、俺様から目を離して、空を見上げて言った。
「…月を見ていた。月を見ているとなんだか時が経つのを忘れてしまう」
独り言のようにつぶやいて、そのまま目を瞑る。 これから死ぬっていうのに、幸せなこって。
(殺すなら 今、か?)
幸か不幸か、今日のかすがは隙だらけだった。 そっと愛用の大型手裏剣に手を添えると、 冷たい金属の感触が全身の熱気を冷ます。
指に力が入ると同時に指先が痛んだ。
(いや、まだだ)
殺るには、まだ距離が遠い。
もう少し間合いを詰めなければ。 深呼吸をして息を整える。
「そんなこと言ってると、暗殺されちゃうかもよ?」
「フン、私はそこまで落ちぶれてはいない」
かすがは吐き捨てるように言うと 気を引き締めたのか、こちらを睨みつけた。 辺りの空気が張りつめる。
(気付いたか…?)
しかし俺様なんて眼中にないのか、また気を緩めて空を見上げた。
(ふぅ。今度こそ、殺るんだ。)
手裏剣に手をかける。

音を立てないように。

静かに、慎重に。
出来るだけ殺気を出さずに、殺るんだ。
自分の鼓動の音だけがやけに大きく聞こえる。 かすがに聞こえるんじゃないかと冷や冷やした。
(大丈夫、大丈夫だ。)
手に力が入る。
間合いを詰めるため、かすがににじり寄る。
あと数センチ、
(もう少し。もう少しなんだ)
「お前は、何しに来たんだ?」
突然、かすがが振り返った。
「!」
思わず手を引っ込める。
(あ、危ねー、)
思いきり苦笑してかすがを見た。
かすがは眉間にしわを寄せたまま俺様を見ている。
その瞳が一瞬暗く、濁った気がした。
かすがは勘の良い女だから、気付かれたかもしれない。
だとすると、もう後には引けない。
お前も俺も、もう終わりだ。
少し我慢すれば、お前か俺のどちらかが屍に変わる。
一瞬だよ、 ほんの一瞬。
それで全てが終わるんだ。
そう、これは仕事なんだ。
私情を捨てろ。
俺様は忍びだ。
真田隊隊長、猿飛佐助だ。
出来ないことなんて何もない。
殺すんだ、この手で。 かすがを。
さぁ、殺るんだ。
もう一度、手裏剣に手をかける。
どのタイミングでいこうか? 自問自答する。
そうだ、 もう1回、 いや、 あと1回。
あと1回だけ深呼吸したら、殺るんだ。
自分に言い聞かせて、かすがを見る。
そして、かすがの瞳を真っすぐに捉えて言った。 何の感情もこもらないように。
「アンタを殺しに。」
息を思いっきり吸って、吐いた。

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