越えられない壁

佐助がこの部屋から姿を消して1週間。
なんとなく室内がいつもより静かで、広く感じるような気がするのは、あくまでも“気のせい”だと信じたい。
折角の土曜日だというのに、なんだか出かける気も起きずにソファに寝そべった。 開け放たれた窓からは休日の昼時にふさわしい子供の声などが聞こえてきて、そのまま眠りに落ちそうな気配すらする。
しかしどんな状況ですらも腹は減るようで、情けないことに私の腹の虫は「もう昼だ」と言わんばかりにきゅるると鳴いた。
佐助がいなくなってからというもの、私の食生活は乱れに乱れていた。
朝食抜きの昼食は外食で、夜は決まってカップラーメンかコンビニ弁当だ。別段料理が苦手な訳ではないが、仕事から帰ってきてクタクタの身体で料理をするのは億劫だった。
しかし、さすがにここ数日の偏食ぶりは身体に良くないとは思う。休日くらいは自炊するかと思い立ってソファからゆっくりと身体を起こした。 まるで電池切れ寸前のロボットのように、のろのろとした動作で冷蔵庫までたどり着く。 期待も僅かに勢いよく冷蔵庫の扉を開ければ、中は空っぽだった。
冷凍庫も野菜室も製氷機の中でさえも何も入っていない。 だいたい自動のはずなのにどうやって氷が出来るんだ? そんなどうでもいいことに苛つきながら、扉を勢いよく閉めた。
さっきとは打って変わった速さでソファにダイブすると、今日一日の予定をどうするかを考える。
“冷蔵庫が空ならば中身を買ってくればいい”という結論に至るまで、実に15分はかかってしまった。
だがそれでもまだ問題はあった。 近所のスーパーは遠いのだ。 コンビニなら歩いて3分、スーパーなら10分近くかかる。 仕方がない今日もコンビニ弁当にするか、とあきらめかけた眼に部屋の隅に溜まっている弁当のゴミの山が写る。 確かゴミ出しは月曜日のはずだから、今日・明日まではこのままだ。 よくよく回りを見渡せば、部屋はまるで誰かが暴れたような――とは言い過ぎだが――とにかく生活感に溢れている。
自分では綺麗にしているつもりだったが、それをあいつは汚いと言う。
自分ひとりで出来ないことなんてないと思ったが、やはり向き不向きはあるらしい。
それだけ奴は家のことをきちんとこなしていた。
なんだかそれがすごく悔しくて―――思わず下唇を噛んだ。 あいつがいなくて清々すると思ったのは最初の3日あまりか。案外脆いものだったなとつい情けなくなって、涙腺が緩む。 傍らにあったティッシュを引っ掴んだ瞬間、突然ガチャリと錠の落ちる音がして思わずフリーズした。
誰だ?あいつの帰りは明日のはず――。
慌ててティッシュで涙をぬぐって、わずかに緊張した胸を押さえながら入ってくるであろう男の顔を思い浮かべた。 駆け出したい気持ちもないわけではなかったが、 ついにそこからは一歩も動けなかった。
固まったまま相手の動向を探れば、バタバタと騒がしい音がしてリビングの扉が唐突に開いた。
「さ、佐助―――?」
「かすがちゃん」
リビングの扉から現れたのは、慶次だった。
「け、慶次?」
「へへ、元気かい?」
「え!?あ、ああ、元気だったが、どうして――」
「俺様が連れてきたんだよ」
慶次の背後から聞こえるのは懐かしい声。 にこにこ顔の慶次の後ろからひょっこり現れる。 思わずまた涙腺が緩みそうになって、それを堪えるのに歯を食いしばった。
「どーせかすがのことだからさ、部屋が散らかり放題だと思ってさ。助っ人呼んだ」
「その割には綺麗なんじゃないの?」
と慶次。
「わっ、私はこれでも―――「わかってるよ、でも俺様の方が整理上手なのは知ってるだろ?」
「…帰ってくるのは明日じゃなかったのか」
「いやぁ、嬉しいでしょ?俺様がいなくて泣いてるかと思ってさ」
「…泣いてなんかいない」
「目が真っ赤だよ」
佐助が“もーしょうがないなぁ”と締りのない顔でそう言えば、呆れたように慶次が合いの手を入れる。
「そんな事言ってる割には部屋に入る前は随分緊張してたんじゃないのかい?」
俺に先に入れとか言っちゃってさぁ、と慶次はしたり顔で笑う。佐助はすかさず口を挟んだ。
「じゃあ、ホラ、まずは。ゴミ捨てからやろーか」
「その前に飯だ」
「飯?」
「朝も昼も何も食べていない」
「朝も――っていうか昼まで寝てたんだろ」
「うるさい、さっさと作れ」
「えー、どうせ買い物から行かなきゃなんないんだろぉ?」
「そうだ」
「コンビニでもいーい?」
「ダメだ、お前の手料理にしろ」
「帰ってきてすぐにスーパーなんて俺様死んじゃう」
「飯を作ってから死ね」
「……いつもよりひどくない?」
「気のせいだ」
今まで私たちのやりとりを黙って見ていた慶次が、にこにこしながらぽつりとつぶやいた。
「二人とも素直じゃないねぇ」
「…うるさい!」
二人同時に声を揃えてそう言ったもんだから、慶次は派手に笑った。

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