いざ、忍まいる(忍んで参ります)

謙信様が私に向かっておっしゃられた。
「きょうでさいごにするのです、つるぎよ」
その声は、いつもと変わらず静かで落ち着いていたが瞳の奥の熱い輝きまでは隠せなかった。
待ちきれないのだろう。信玄との戦いが。
私は下唇を噛んで謙信様の瞳をのぞき見たことを後悔した。
「はッ!このかすがが、必ずや成し遂げます」
気持ちを振り払うように声を出した。切れ長の瞳がよりいっそう優しさを帯びる。
私は決意も新たに、本陣から離れた。
(サナダユキムラヲコロス。アイツニアウマエニ)
道中、呪文のように繰り返し唱えた。それがあのお方が私に課せられた命だった。
真田幸村さえいなくなれば、信玄や、その他の兵の士気は簡単に下がるだろう。
そもそもいつもアイツに邪魔をされるのだから先に真田をやっておいたほうが後々楽というもの。
真田とて有能な将とはいえど暗殺ならば話は違う。
真田さえいなくなれば、アイツとも無理に戦う必要もなくなる。
全ては、あのお方のため。

そう言い聞かせて森の中を進む。
かなり遠回りをしたが、このまま進めば真田率いる騎馬隊にぶつかる筈だ。
アイツが武田信玄の傍にいることはすでに調査済みで、誰にも見つかる心配はなかった。
かすかだが、紅の旗が翻った気がした。
(近いな)
心臓が高鳴る。出来れば離れた所から暗殺するのが好ましい。
自分の位置と真田幸村の位置を目分量で測った。この距離なら、わけもなく奴を仕留められる。
辺りに注意しながら、素早くくないを構えた。
(かすが)
名を呼ばれた気がして、動きを止めた。

声がした方角に目をやる。
空を仰ぐと大きな凧が見えた。
―――まずい、
凧に乗っている人物は今一番会いたくない相手だった。

それは凧から飛び降りると私の目の前に姿を現した。そして緊張感のない声で言った。
「殺気だっちゃってまぁ、そんなに慌ててどこいくの?」
「猿飛、佐助ッ!!」
思わず声が荒ぶる。
「貴様、なぜここにいる?!」
奴は信玄と一緒にいる筈だ。私は思考を巡らせた。
「あれはねぇ、分身ってわけさ。アンタもよく使うだろ?」
佐助は得意げに言う。
私は嫌悪感を露にして舌打ちをした。佐助は臆することもなく続ける。
「いやぁ、でも空から見張ってた甲斐があったよ。お前に会えるなんてね」
「フン、お前なんかとやりあっている暇はない」
吐き捨てるように言って、そのまま進行方向へ歩き出した。
早くしないと、騎馬隊は行ってしまうかもしれない。
でもそんなことはお構いなしに佐助は私の前に立ち塞がる。
「そこをどけ」
佐助は相変わらずヘラヘラとこちらを見ている。
仕方がないので佐助の脇を無理矢理通ろうとして右足を出した。
殺気。
足を出すのとほぼ同時に佐助の目の色が変わった。
思わず後ろへ跳躍する。足下に目をやると手裏剣が刺さっていた。
「こっから先へは通さないよ」
そう言って大型手裏剣を構えた。

そして佐助自身と私の間に手裏剣で線を引いた。
「悪いけど、ここを越えたら戦闘開始と見なすよ」
「手加減はしない。殺す」
佐助は真顔で、はっきりと言った。
それから私の表情を見てにっこりと微笑んだ。
「そんな顔するなよ、大丈夫だって。要はここを越えなきゃいいんだから。簡単だろ?」
ここで談笑でもしようというのか。馬鹿馬鹿しい。私は呆れて佐助を見たが、本人はひょうひょうとしていた。
「なぜだ」
なぜ邪魔をする
なぜいつもお前なんだ
声が喘ぐように漏れた。
沈黙。
佐助は答えない。
うかがうように私を見るとため息まじりの声で言った。
「…俺様がわかってないとでも思ってるの?」
佐助は鼻で笑うと私を睨みつけた。
「お前、旦那を殺る気だろ?」
そう言うなり、空気が振動する。冷たい瞳で私を一瞥すると、殺気を露にして刃を向けた。
どうやら本気らしい。
…やはりこうなってしまうのだな。
私はあきらめの念を抱いて佐助を見た。

佐助も私と同じ気持ちなのだろう。互いにしばらく見つめ合った。
そして、佐助が口を開く。
「全く、呪われた職業だねぇ」
短く言葉を切って吐き出すように言った。

「お前を殺さなきゃ俺様の主が死ぬ。俺様を殺さなきゃお前の主が死ぬ。
俺様はお前が邪魔。お前は俺様が邪魔。なんでお前なんだ、こっちのセリフだよ。
まぁ、お互い答えはわかりきってるよな。

主が一番、主のためなら命を捨てろ。
…口を酸っぱくして言われたよねぇ?」
佐助は皮肉っぽく言う。
そうだ。それが里の教え。忍びの掟だ。
幼い頃より耳が蛸になるくらいに聞かされ、教え込まれ、体に染み付いた。
それから逃れる術などない。
『忍びの掟』という名の呪い。
主以上の生き甲斐を、私たちは見いだせない。

呪われた職業。そうかもしれないな。
妙に納得してしまい、自嘲的に笑う。
佐助もまた笑っていた。

俺たちは、これで良いんだ。まるでそう言っているような目。
空気が静かに重く張りつめていく。
これが最後だ。

私は佐助の笑顔を心に刻み付けた。その悲しみを帯びた優しい笑顔を。
私とお前は、これで良いんだな。

「いざ、忍んで参ります」
「いざ、忍び参る」

ほぼ同時に叫んでその線を越えた。

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