甘える

【甘(あま)える】
相手の好意に遠慮なくよりかかる。また、なれ親しんでわがままに振る舞う。

ソファで冷たい麦茶を飲みながらくつろいでいるまっただ中。 男は、どこから持ち込んだのか分厚い辞書をこれでもかと見開いて私に見せつけた。 わずかに腕がぷるぷると震えているのは運動不足の証拠ではないのか。 ご丁寧にピンクのマーカーで印までつけているという事実に、虫唾が走る。
「お前は女子高生か」
「これは俺様の辞書じゃないし」
恋という字の隣に好きな人の名前を書くタイプだとは知らなかったがどうやら違うらしい。 では誰のだと聞きたかったが怖いのでやめておいた。 一体それがどうしたと尋ねれば佐助は真剣な眼差しでいう。
「もっと甘えていいんだよ」
危うく持っていた麦茶を落としそうになる。 とうとう暑さで脳をやられてしまったのだろうか。
「…頭は大丈夫か」
「ちょっと、まじめに聞いてくれる?」
ゴホンと咳払いをするが、始めにふざけた事を言い出したのはこいつの方だろう。 しぶしぶ聞けば佐助曰く。 私は何でも一人で決めてしまうらしい。 折角の彼氏の存在意義がないとのたまう。
「…お前が彼氏だったことは今までにあったか?」
「まぁまぁ、とにかく。かすがったら俺様、俺様ったらかすがなわけよ」
「そんな話は初耳だが」
「ようは、一人で頑張りすぎず、俺様にも頼って欲しいってわけ」
意味ありげに目配せをする男はすこぶる面倒くさい。
「…甘えてるだろ」
「どのへんが?」
「………」
すぐに即答できない。 だがそれなりに頼っていることは事実だと思う。 夕飯の買い物のついでに思い出す程度の位置づけだが。
「というかよくよく考えたらお前に頼る義理はない」
「えーー、俺様の前フリ全部ムダじゃん」
この話は終わりだと言わんばかりに立ち上がると、 おかわりの麦茶をとりに冷蔵庫へ向かう。 冷蔵庫の冷気を感じながら2リットルのペットボトルを取り出して、 そのままテーブルへ踵を返し、ふたを開けようと試みた。
「………」
蓋を見つめながら考える。 しばらく動かない私を不審に思ったのか、佐助は声をかけた。
「どしたの?」
「…開かない」
佐助は目を真ん丸にして訝しむ。
「開かない?」
「そうだ」
「何が?」
「何って、ペットボトルのフタだ」
「ペットボトルのフタ?」
「…そうだと言っている」
佐助の瞳は満月のように真ん丸だ。 なんだか私がいたたまれなくなってきた。
「…試しにやってみ」
「………」
微妙な間の後、蓋に手をかけひねれば、当たり前だが ペットボトルは難なく開いた。
「…開くじゃん」
相変わらず訝しげな視線を送ってくる男に関して、 小さく言った。
「…甘えただろ」
何の文句があるんだと言わんばかりに睨め付ければ、 佐助は苦笑した。

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