愛と痛み

肉体的にも精神的にもヘトヘトになりながら、それでも慎重に我が家の扉を開けると、中は真っ暗闇だった。
“さすがにこの時間じゃあね”と苦笑して携帯電話を開くと、時刻は既に午前5時になろうとしている。
そのまま玄関口に腰を下ろし、携帯の照明に目を細めながらメールを確認すると、大将からメールが来ていた。
嫌な予感をひしひしと感じたので、気付かなかったふりをして寝てしまおうかと思ったが、残念ながらメールのタイトルだけで用件がわかってしまった。
『SUB:至急戻れ』
はぁ、と大きくため息をついてネクタイを緩める。
静かに革靴を脱ぐと、重たい身体でゆっくりと立ち上がった。
うちの会社はとんだブラックだ―――
携帯の明かりを頼りにリビングまで進んでいって、冷蔵庫をおもむろに開く。
中に入っていた(かすがの今晩の夕飯と思われる)惣菜のコロッケやらポテトサラダやらを取り出してテーブルに置いた。
次いで冷凍庫から凍ったご飯を取り出すと、手際良く電子レンジにかける。
レンジを回している間に顔を洗おうと、洗面所へ向かった。
ふと視界に入るかすがの部屋の扉は固く閉まっていて、恐らく寝ているのだろう。しんと静まり返った室内に動くものはない。
「…そういえば俺、今日はかすがの顔一回も見てないじゃん」
つぶやくように独りごちて、朝の忙しさを思い返した。
かすがが起きる前に家を出て、かすがが寝た後に帰ってくる。
なんだか無性にかすがの顔が拝みたくなって、寝顔でも良いから一目見て仕事に戻ろうと思った。

*

(失礼しま~す)
声なき声でそう言って、音を立てないよう部屋の扉を慎重に開く。
部屋に一歩入るなり、かすがの寝息が聞こえてきて、思わず身体が強張った。
ここで気付かれたらおしまいだ。
全身全霊の力を込めた忍び足で、かすがの寝顔が見れる位置へ移動する。
彼女は扉側に足を向けて寝ているので、顔を拝むには部屋の奥まで入らねばならないのだ。

ベットの真ん前に正座すると、かすがの寝顔を凝視した。
ようやく暗闇に目が慣れてきたのか、次第にはっきりとしてくる目鼻立ち。
いつもの大きな瞳は、しっかりと閉じられていて、長いまつ毛に縁どられている。唇を少し開けた無防備な寝顔は、なんともいえない魅力があり、しばらく見ていても飽きないように思えた。
(………。)
と同時にむくむくと湧きあがるスケベ心、もとい悪戯心が抑えられなくなってくる。
朝の5時くらいの眠りは、結構深そうな気がする―――。
自身の勝手な憶測を心の中で呟いて、ベットへさらに身を寄せた。

さすがに布団に入るわけにはいかないから、ベットの淵へ手を置くとぎしりと軋む。
顔にかかる髪を優しくなでつけると、かすがの唇に、
(いただきまーす――)
口角が上がるのをなんとかこらえながら、かすがの唇と俺様の唇をいざ重ねようとした瞬間、
かすがの目が唐突に開いた。
「…………!」
眼前で動けないまま、かすがを見つめる。
寝ぼけているのかなんなのか、かすがも動かない。
もしかすると顔が近すぎて、自分がどういう状況にいるのか理解できないのかもしれない。
これ幸いと瞬時に判断した俺様は、ささやくように語りかけた。
「これは夢だよ」
「………」
「これは夢だから、さぁ瞳を閉じて」
うまくいけば夢だったで済ませる事が出来る。
まるで催眠術をかけるような口調でささめくと、かすがはぴしゃりと言った。
「……何をしている」
「……これは、夢だってば」
背中に冷や汗をかきながらそう言えば、かすがの眉間にくっきりとしわが寄った。
「ほぅ、夢か」
「そ、そうそう、悪い夢だって」
かすがは据わった瞳で顔をわずかにゆがめると、
夢ならば別に痛くないよな、と俺様のほっぺを思い切りつねった。

Since 20080422 koibiyori